金融リテラシーを向上させる必要があるのは分かる。でも同時に激しく感じるこの違和感はなんだろう…
先日、とある雑誌の記事を読んでいた時のこと。
その記事では、某有名大学の経済系教授という、
まぎれもなく日本トップクラスの肩書を持つ著者が、
日本人の金融リテラシー向上の必要性について
切々と語っていました。
しかしそれと同時に、言いようのない違和感を
感じてしまったのも、事実です。
その違和感の正体は一体なんなんだろう?
目次(タップでジャンプ)
ん…?銀行?
冒頭の記事では、金融商品を購入する際の、
リスクに関する説明が長すぎることを例に、
日本の金融関連業の生産性が低いことを指摘し
またこの低い生産性を解決するために、
基本的な金融教育は例えば義務教育レベルで済ませてしまって
金融機関はより高度な業務に集中すればよいのではないか?
と提言しています。
文中には「国家戦略」や「投資家の金融リテラシー」
果ては「OECD」などというキワードを掲げ
金融リテラシー向上の意義を大々的に訴えています。
そのこと自体は確かにその通りだと思うし、
主張点として全く間違っていないと思います。
ただ1点、僕が違和感を持ったのは
その記事が「銀行へ投資信託の購入へ行った」
という1文から始まっていたからです。
全ての銀行がそうだと言うつもりも可能でもありませんが、
一般に銀行取り扱いの投信は販売手数料が高いことが多く
また銀行では株式取引ができないために
同類の商品であるETF等との比較も面倒になります。
(少なくとも銀行窓口では、そうした比較はしてもらえません)
ですので、銀行窓販の投資信託は、
経験のある投資家の間ではあまり歓迎されていないのが
現状だろうと思います。
そうした「銀行での投信購入」という
(ありていに言えば初心者と思われてもしかたがないような)行動と
「金融リテラシーを広めるべき」という高尚な主張とが
かけ離れていることが違和感の主な原因です。
もちろん、
そもそもどこで投信を買おうが、個人の自由ですし
銀行窓販を選んだのも、著者なりの
深い事情や理由があったからかもしれませんので
著者個人に対して批判することはナンセンスです。
また、記事の主張は納得できるものであり、
それ自体は、大変素晴らしいものと思います。
それでもやはりコメントせざるをえないのは、
より「根深い問題」をその記事が
暗示しているように思えたからです。
視点が固定化してなかったか?
金融リテラシーを高めるというのであれば、
金融商品をどこから購入するかについても
重要なリテラシーの一部のはずです。
ネット証券、証券窓口、銀行窓口などを検討した結果として
銀行窓口に行くのであれば特に問題ありませんが、
「投信ならとにかく銀行にいけばいいのでは?」
のようなノリで決めてはいけないはずです。
この記事は、個人の嗜好と金融リテラシーの原則が
ごちゃまぜになっているために、冒頭で書いたような
違和感を生み出してしまっているのだろうと思います。
少なくとも金融リテラシーが大事だ、ということを訴えるのであれば
なぜ銀行窓口を選んだかの合理性を簡単にでも説明するか、
あるいは銀行という名詞をあえて伏せておくか、
とにかく一貫したメッセージを打ち出す必要があったように感じます。
この記事が銀行員からの寄稿であれば「また内輪びいきで」(笑)
で済んだかもしれませんが、一応、中立性の高いと考えられている
大学に所属する著者の記事だったことが
金融リテラシーという課題の根深さを垣間見せています。
もちろん、こんな偉そうなことを書いててなんですが
僕自身、全知全能の金融リテラシーを持っているわけでもなんでもありませんし、
また、持っている知識の範囲内であったとしても、
読者に正しく、分かりやすく伝えられているかどうか?
反省すべき点も大いにあると思います。
ですので、この記事は自戒の意味もあります。
本当に必要なのは「オープン」なこと?
「知」の持つ本質的な課題として、神ではなく人の場合、
全知全能はあり得ないということから考えれば
金融リテラシーや金融知識を広めていくためには、
「ディスカッションすること」も大切だと思います。
単に義務教育で金融知識を詰め込めばいいという話ではなく、
一般に開かれた場で議論することが大切だと思うのです。
もちろん誰もが金融の専門家になる必要はないのですが
議論できるオープンな場があれば、
普通に投資をしたいと願う多くの個人にとって、
大きな助けになるんじゃないでしょうか。
「お金は汚い」「お金の話を公にするのはタブー」
という雰囲気を変えていくことも、金融リテラシーの
向上につながるはずです。
そして、大学という「知」の要であり、
公正中立な立場だからこそ、
これは可能なんじゃないでしょうか。
もしそうした場があったなら、
冒頭の記事もより洗練されていたかもしれない…。
そんな、いろいろなことを考えさせられた
記事でした。
「知」、深いですね。
以前「集合知」という語もコメントに記されていましたが、集団的知性というのはクラウドやビッグデータなどの進化、重要度の増加でそういう概念がクローズアップされてきたのかと思ってましたが、最初に提唱したのは昆虫学者だったんですね(by Wiki)。
逆に昨今では紹介された記事のような、何かが欠落したような論評や、それのみならずその他種々雑多な分野でそういうような出来事が増えてきたような気がしてならないですね。。。
…閑話休題。
私なんかの俗物からしたらその教授、どこぞからの袖の下でちょうちん記事書いてんじゃないの?とか疑ってしまいますが…。(笑)
おかだ様
いつもコメントありがとうございます。
> 逆に昨今では紹介された記事のような、何かが欠落したような論評や、それのみならずその他種々雑多な分野でそういうような出来事が増えてきたような気がしてならないですね。。。
それは、おかださんの知的レベルが
上がってきているからかもしれませんね。
僕も偉そうなこと書いていますが
自分の足りない部分をいつも点検中です(苦笑)
> 私なんかの俗物からしたらその教授、どこぞからの袖の下でちょうちん記事書いてんじゃないの?とか疑ってしまいますが…。(笑)
そうではないことを祈ります(笑)
(ー人ー)