年収が人より多くて、何がいけない?

前回の
「うわ…俺の年収、低すぎ?」に潜む罠
に引き続き年収シリーズ
今回は年収を他人と比較することの
弊害についてです。

いや、比較するほどの年収なんてないよ
と思われるかもしれませんが、
実は年収の多い、少ないには全く関係ありません。

年収が多いことはいけないことなのか?

前回の記事で、
年収を他人基準にすることの
「集合的無知」問題を指摘しました。

今回は、より個人的な感情の罠に迫ります。

他人と年収を比較するときに、

「あいつは大した仕事もしてないのに、なんで俺より年収が多いんだ?」

とか、

「上には上が居る。もっと稼がなきゃ」

みたいな気持ちになることがしばしばありませんか。

慶應義塾の生みの親、福沢諭吉は
その著書「学問のすすめ」の中で
「怨望(えんぼう)」と呼んでこれを戒めています。

怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。

簡単に言えば、
他人を羨んだり妬んだりするのは自分の利益にならない上に
他人の足を引っ張るだけなのでやめときましょうよ、
ということですね。

考えてみればこれは当たり前のことです。

経済の性質上、収入の多い、少ないが生じるのは仕方がないですし、
それを無理やり全員同じ額にしようとすれば、
計画経済(既にこれは経済とは呼べないと思いますが)
にするしかありません。

残念ながら、計画経済は事実上絶滅状態ですが、
仮にある国の計画経済が成功したとしても、
他国と比較すれば、その差は明らかでしょう。

(誤解のないように加えておきますが、
僕は極端な格差を許すべきだとは思っていません。
それはそれで全く別の問題が生じます。

ただし、格差の問題は今回の議論とは
無関係ですので割愛します。)

つまり、収入の額にいろいろ差があるのは
当たり前の話なんですね。

ポイントは、
これを当たり前の事実として当たり前のように受け止められるか、
あるいは福沢諭吉が言うところの「怨望」に走ってしまうのか
その違いにあります。

怨望に走ってしまうと、
稼げば稼ぐほど、卑屈になっていくという
矛盾が生じてしまうのです。

なぜなら、他人の不幸を喜んだり、
逆に自分の収入を必要以上に自慢したりしないと
心の中の怨望を正当化できなくなるからです。

こう書くと、ある人は

「いや、他人の年収は気になるけど、そんな卑屈は決してない」

と反論するかもしれませんが、
そもそも他人の年収を気にしている時点で
心が下向きです。

この心の働き、実は年収の高低には
無関係なんですね。

例えば年収何億とか、
常人から見れば桁外れに稼いでいるような人が
満足感も幸せ感もなく過ごしているとしたら
恐らくそれは「怨望」の罠にハマってしまっているせいでしょう。

もしあなたの近くに、見栄っ張りの金持ちがいたら
恐らくそうだと考えていいと思います。

これがクセモノなのは、
そうした考えをもって行動していると
たとえ大きく稼いでも幸せ感を得られない上に、
経済的破綻をも招きやすい、
ということです。

だからこそ、気をつけないといけない。

決して年収が多ければ解決できるような問題ではなくて、
あくまでも心の根っこの部分の問題なんだということを
理解しておく必要があります。

もし今、年収比較の罠にはまっていたとすれば
そこから抜け出すためには
とにかく「学ぶ」しかない

と僕は思っています。

学び、進化して、
思考停止にならないようにする。

羨み、妬み、という感情は
心が弱くなった時に生まれやすいです。

羨みや妬みを持つ人自身が
悪いというわけではないと思います。

僕だって、全くそうした感情なしに、
まるで悟りを開いた菩薩のように過ごすことは
少々無理があります。

羨み妬みは、体の弱った人が風邪をひくかのように
油断をすれば誰にでも起こりうる、
ちょっとした病気のようなものなんです。

(そしてそれは容易に空気感染します 苦笑)

だからこそ、常に学んで
心を鍛える必要があるわけです。

病気に負けないように、
普段から体を鍛えて健康に保つ、
というのと同じ考えですね。

それ以外に道はないと僕は思います。

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